5月25日(土)ー26日(日)第1回伊勢神宮ー熱田神宮ウオーキングが行われました。
名古屋市が昭和47年から平成2年まで開催していた「伊勢神宮ー熱田神宮、強歩会」のコースを東海マラニッククラブで辿ってみようという企画、114kmの道のりを「24時間、走らず、眠らず、歩き続ける」企画です。
2013年5月25に(土)午後1時、伊勢神宮・外宮で2日間の安全無事をお祈りした後、、スタートです。スピードは1時間に6km(前半)〜5km(後半)を守り24時間歩き続けますが、私には時々走りを入れないと追いつかないくらいの早いスピードです。
参加者は25名、13時に外宮を出発、ひたすら伊勢街道を北に向かって歩き続けました。1時間に6km(前半)〜5km(後半)という速いスピードで歩き続けました。スタートして一人がこのスピードについていけず脱落、津市では4名が、四日市手前54km地点で1名が勇気あるリタイアとなりました。
私は何としても伊勢街道70kmプラスアルファを目指して必死についていき、四日市駅、74km、16時間でリタイアとなりました。24時間、1時間6-5kmのペースで歩く続けることがいかに過酷かを身をもって体験しました。
【伊勢街道】
伊勢神宮参詣(さんけい)用の街道の総称。桜井市初瀬(はせ)から青山峠を経由する初瀬街道、東海道の日永(ひなが)(現在、四日市市)から分かれて南下する参宮街道、鈴鹿峠を越えて参宮街道に合流する伊勢別街道などがある。
伊勢本街道について
お伊勢参り――。「伊勢に行きたい伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。
元々、伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教が全国的に広まるのと歩を合わせるように、道の整備なども進み、旅をし易い環境が整っていった。戦国末期には織田信長の政策などによって各地の関所が廃され、参宮者の数も増加。更に、江戸時代になると、幕府主体の宿駅制度の制定や交通事情の改善に加え、経済的・時間的余裕を持つまでになった庶民層も大いに旅を楽しむことができるようになっていた。
安定期の江戸時代にあっては、旅そのものがいわば娯楽であった。中でも、伊勢は最も人気の高い旅の目的地としての地位を確立するに到った。村などの共同体で講を作り、積立金を元手に代表者が伊勢まで旅して参拝(代参)するというケースも全国的に見られた。また、約60年に一度、“参宮ブーム”ともいうべき現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。
こういった人々を伊勢へと駆り立てた原動力としては、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや日常からの逃避もおおいにあったようだ。実際、講に属さない個人の参宮者も多く、中には、「抜け参り」と称して、家人や奉公先の主人には内緒で伊勢に旅立った者もいた。日常からの脱却を、旅、それも参宮に求めるという感覚は、現代人にも充分通用する感覚ではないだろうか。
さて、全国津々浦々から伊勢を目指すルートはいくつかあった。最も有名なものとしては、「伊勢参宮街道」と呼ばれる街道で、関東、東海方面からの東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて伊勢を目指すルートが挙げられる。これは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などでも紹介されているルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。これに対し、西国、関西方面からの参宮者が辿った道筋のほとんどが、大和(奈良)を経由するものだ。
奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが本題の「伊勢本街道」と呼ばれる道である。奈良(猿沢池)から出発し、三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って山田(伊勢)に到る約129キロの行程だ。
そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれており、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから“神意に叶う道”として西からの参宮者が多く利用した道であった。しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道の方が平坦であったため参勤交代に使われたため、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。
明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるももの、時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業に追い込まれ、今では沿道の人口も減って過疎の一路を辿るばかりだ。開発が進まなかった分、常夜灯や道標、旧旅籠の遺構、細くうねるように続く道など、旧道の名残は随所に見ることができるのだが。
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