2月20日(水)第3回美濃路マラニックが行われました。美濃路街道は東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶバイパス道路の役割をした脇街道であり、東海道宮宿から濃尾平野を北上し中山道垂井宿までの7宿、14里24町15間、約58.7kmの道程でした。私は第1回、第2回の美濃路マラニックに参加し、垂井宿から清洲宿まではすでに走っているので、今回の清洲宿ー宮宿完踏で美濃路街道の全行程完踏となり中山道完踏に次ぐ2つ目の旧街道完踏となりました。ゴールの宮宿には祖父、武藤銀太郎が兄とともに立てた料亭「魚半」の建物が現在も名古屋市の有形文化財として保存されています。祖父はその後、名古屋第九師団の金沢進駐に御用商人として同行、金沢でも料亭「魚半」を建てそこで結婚、落ち着いて我々家族が金沢で誕生、兄は今も三代目として金沢で「魚半」を守っています。
江戸時代、江戸と京の交流は大動脈東海道と中仙道を利用するケースが最も多く、それだけに交通量も他の街道に比べ格段の差があった。しかし、この両街道は尾張地方で最も接近しており、美濃路はこの両道を結ぶ脇街道として発達した。
東海道宮宿より名古屋宿ー清洲宿ー稲葉宿ー萩原宿ー起宿ー墨俣宿ー大垣宿ー中仙道垂井宿合流 となるが、京へ上る場合、宮宿から東海道を利用するより2里程道程は遠くなるが、「七里の渡し」で海路をゆく危険性を避け、この街道を利用する旅人が多かった。
東海道の宮宿から分かれて名古屋・清洲・稲葉・萩原・越(おこし)・墨俣・大垣の7宿を経て中山道垂井宿に至る、14里24町、約58.7キロの街道である。
この東海道と中山道をつなぐ街道を、道中奉行は中山道の脇往還として支配下に置いていた。
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